おかやま大研Q:陪審制度の成立に尽力、旧中庄村出身の平松市蔵 /岡山
◇80年前の“裁判員制度”の立役者--市民の視点の重要性強調
来年5月の裁判員制度導入まで半年になった。先月28日には09年の裁判員候補者に向け最高裁から一斉に通知が送付されるなど、制度開始へ向けた手続きが着々と進んでいる。刑事司法の大転換と言われる裁判員制度だが、戦前、日本に陪審制度があったことは意外に知られていない。その陪審制成立に尽力したのが旧中庄村(現倉敷市)出身の弁護士、平松市蔵(1880-1944)。決して歴史の表舞台に出ることはなかった、平松の人生とはどんなものだったのだろうか。【松井豊】
http://mainichi.jp/area/okayama/news/20081203ddlk33040796000c.html
□資格制限を設けた陪審法□
平松は都宇郡中庄村大字鳥羽(現在の倉敷市鳥羽)で、農家の次男として生まれた。15歳の時に父親を亡くし、19歳で上京。早稲田大の前身、東京専門学校に入学、法律科を卒業し弁護士試験に合格した。法の道を選んだのは、今の弁護士業務をこなしていた代言(だいげん)人を務めていた親せきの影響では、という説もあるがはっきりしない。
陪審法の成立は1923年だった。制度は5年の準備期間を経て、28年から施行される。有資格者は3円以上の税金を納める30歳以上の男子。事件ごとに12人の陪審員が審理にあたった。現代の裁判員制度に比べて、性別、階層的条件に大きな制限があった。戦火の拡大に伴い、財力や労働力が戦争に割かれたことなどから、43年には陪審制の一時停止を定めた「陪審法の停止に関する法律」が成立。法で「戦争終了後再施行する」と規定し、停止状態が続いたまま現在に至っている。
□舞台裏の実働部隊□
では、陪審制に平松がどうかかわったのだろうか。陪審法成立2年前の1921年、法案のたたき台となる「陪審制度法理観」が、後に司法大臣や枢密院議長を務める原嘉道ら3人の重鎮弁護士から提出された。「法理観」は3人の口述だったため、大学時代に原の教え子だった平松が文字に起こす編集発行人を引き受けることになった。
また、23年に新しく設立された第一東京弁護士会会長に原が就くと、原の信任が厚かった平松は、補佐役として副会長を任された。倉敷市中庄の年刊郷土誌「中庄の歴史」編集長、戸板啓四郎さん(63)は、「原らが表で陪審制の導入を進める傍ら、平松は舞台裏で法整備にかかわる庶務作業を担当した。平松は、いわば“実働部隊”だった」と語る。
平松は陪審制施行から3年たった31年、会誌に「陪審制度施行の影響」という論考を寄せる。そこでは「国家の裁判は司法官のためにあるのではなく、国家人民のためにあるのであるから、人民側から観(み)たところの影響を軽視してはならない」と、法の専門家だけでなく、市民の視点を取り入れた陪審制の意義を強調している。こうした観点は、裁判員制度と共通する。
◇図書館建設し故郷に貢献
□「成熟した個による国家」□
平松は郷土に対する貢献も忘れなかった。第一東京弁護士会会長だった35年、私財を投じて故郷の中庄村に「中庄図書館」を建設した。開館時には蔵書約3000冊を寄贈し、自身が亡くなる44年まで図書館の運営資金を提供した。中庄図書館は83年に取り壊され、貴重な資料は散逸してしまった。
戸板さんは「平松はエリートとは言えず、一つ一つの仕事を丹念に積み上げて成功した人だから、教育の重要性を分かっていたのだろう。また、個人が成熟してこそ国家が成り立つという意識から、個人の人権問題に目を向け、陪審制度成立に奔走したのではないか」と分析する。
戸板さんによると、平松はその仕事ぶりに加えて「清廉潔白で剛直」な人柄で尊敬を集めた。黒子に徹しながらも、陪審制の“立役者”とも言える存在だった。しかし、平松が法制史に残した足跡は、これまでほとんど調べられていないという。裁判員制度が始まる今、先達の功績を再評価する時期なのかもしれない。
毎日新聞 2008年12月3日 地方版